昭和五十七年三月二十五日 朝の御理解
御理解第五十二節
信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてもきても、少しも驚くことはならぬぞ。
昨日は北野の中村さんのお宅の謝恩祭でございました。あちらで皆さんに聞いて頂いた事でしたけれども、いよいよ成り行きそのものが神様の働きであると云うことを、確信できる事のために、日々の合楽理念の実験実証であるというお話をさせて頂きました。
お話ししながら改めて、そうだなと私自身も思いました。皆さんが日々今日もどうぞ、合楽理念の実験実証さして下さい、という姶良理念の実験実証の内容とはどう云うことかと。成り行きそのものを神様の御働きとして受けることであり、頂くことである。いわゆる合掌して受けるのでありね、いわゆる尊び敬う心で受けるのでありね、それが例えばどういう自分に分の悪いことであろうが、きついことであろうが、又は苦しい悲しい事であろうがね、それが天地の親神様があなたに求め給う修行であると分からせて頂いたときに、その修行を有り難しと受けていくことができるんだと云うお話でした。
ですからね、どうしても分からなければならんのは、成り行きそのものが神様のお働きなのだと。しかもそれは一人一人に、だから神様が願われる、又は求められるものが違うということなんです。
そしてなら、実験実証さして頂くうちに、いよいよ確固たる云うなら、確信が生まれるということは、成る程、確かに成り行きそのものが、天地の親神様の御働きであるということを、信ずるところから、もうそこには問題が問題じゃなくなるわけでしょう。どんな問題があっても、それが神様のお働きであると分かったときに、そりゃきついこと、苦しいこと、又悲しいことであってもね、それがあなたに求め給う神様の御修行であると分かったときに、その苦しい悲しい事も、合掌して受けていくという生き方をいよいよ徹して身につけていかなければならんと云うことでありますね。
お互い毎日今日も合楽理念の実験実証さして下さいと云う願いを、その願いの内容はどこまでも云うならば、神様の御働きを御働きとして頂く。又それを信ずるということなんだね。そこになら、不平も不足もなからなければ問題もないということになるのです。
昨日私はあの初めての方やらが、お参りになったときでも、どこから参ってきなさったか、誰のお導きでしたかという事を聞かないことの主義ですから、ただ願いをお取り次ぎさせて頂くだけですから、確か福岡あたりの方と思うんですけれども、お伺いに見えた。というのは、ご主人がある会社に勤めておられる。もうそりゃ朝も人より早く行って、この頃のごたりゃ、もう晩な十一時までも残業をして帰ります。もう日曜もない。土曜もないようなまじめな働きをしますけれども、それがいっこうに上役から認められない、だけでなくてこの頃人間関係で悩んでおるのをもう見てはおられません。自分もどっか良いところがあるなら変わろうというております。私もそうさせたいと思う。どうしたら良いでしょうかと云うお伺いでした。
そいで、私は「そんなに一生懸命働いて、そして認められないで、しかももう仕事が苦になるようでしたら、もちっと性のおうたところに変わるということもいいでしょうと云うて、もう今変わったところでね、いわば遊んどらんならんと云うことではいけない、変わるというが辞めるといったのでは。だからお繰り合わせを願いなさい。だからそのお繰り合わせをできるまで辛抱しなさい」というてまあ申しました。
そしてね、合楽にこうやって御縁を頂いてね、「合楽で云われる合楽理念の勉強ができてくるようになると、又話が違いますよ」というて話した事でした。
これは私が長年の体験で、起きてくること全てのこと、成り行きがね、神様の御働きであると合楽では説きます。又事実そうなんです。ですからその、例えば人よりも余計に働くとか、又上役から認められないとか、人間関係で苦しいとかというそのすべてがね、合楽理念を持ってすると、実は有り難い事である。人よりも一時間も二時間も修行ができるね。云うなら様々な人間関係そのものも、それは神様があなたに求め給う修行だから、それを修行として成り行きを大切にしていくならば、もうそりゃ素晴らしいお徳が受けられるだろうとね。
お徳を受けたらもう、誰も勝つことはできません。お徳によるおかげというものはね、こりゃもうだれでも、このお徳には勝つことができませんね。そういう云うならばおかげを頂くためね、だから今あなたのお伺いに対して、まあそんなにきつい苦しい、又認めもされん、というならば変わるも良かろう。そんなら変わっても良いから、もうしばらく辛抱しなさいね、そして次の働き場が見つかってからでもいいじゃないですかとね。それはあなたのお伺いに対してで透けれどもね、合楽に縁を頂いた限り、信心によっておかげを頂こうと思うと、今のままが一番いいですよ。もう今こそお徳を受けるチャンスですよ。力を受ける。云うならば時期なんですよと云うて、お話したことでしたけれども。ならこれは合楽の信奉者の一人一人にその事をはっきりと自覚させる、又はそれを確信させると云うところに合楽の信心はあると思うですね。
あちらにお参りいたしまして、御神前に出たらすぐ頂いたのが、あの男の節句といわれる五月の節句にね、五月の節句に今はもう作ったりしませんけれど、ちまきを作りますよね。ちまきを作ってこう、こもで包んでそれを十本なら十本ね、こうさえる。独特のくくり方があるでしょう。あれをつくってくくっておるところを頂いたんです。
ですからこちらのところはまあだ、こう包丁で切りそろえなきゃ、ならんですね。根のところを。そしてそれを又蒸すか、湯がくかしなければならんのである。
ハハァこれはちまきと云うことは男の節句と云われるのですから、これはここの主人である中村清さんに対する御理解だなあと思いました。
この人はもう何十年間でしょうかね。久留米の報国タクシーに勤めて、もう一回も事故がない。といってまあ大変大事にされ、有名でもうあそこへ参りますと、ずーっと毎年毎年無事故であった表彰状がかかっとります。もう家中にこう。
今度行ったらそれが全部取り払われてあった。まあいくつかこうやってでておりました。のでしたけれども、というようにおかげを頂いておるから、この人はもう必ず、だからもう本当に、神様のおかげということは、やっぱり信じておられるわけです。ですからもう一週間に一回、お休みの時には必ず、御礼参拝をして見えて、もう御礼参拝して見えて、ここでお届けをさせるのは「この一週間もおかげで無事故のおかげを頂いて有り難う」この事なんです。これはおかげの実感なんです。ね。
だから先だってあの市川さんの事でも申しましたように、本当に合楽のおかげで十一年前に命を頂いたんだと云う実感が年々強うなってくる。七十八にもなられてね。云うならば、十一年前になくなっていたはずの自分がおかげ頂いておるのは、合楽のおかげであると実感しておるから、云うならその後の信心にも熱心にできられるだけではなくて、もうその、丁度霊祭の前の日ですから、二十二日の日にはもう毎年必ず、それこそ改まって御礼さんぱがございます。ね。これはおかげの実感なんだ。だからできる。
清さんの場合もそうです。一週間に一回、これは必ず御礼参拝があります。そして云われ事、その事です。ですからそれだけのおかげを実感できるのですから、その事だけではない。もう全ての事に神様のおかげを頂かなければと、分かるときに、初めて本当の意味においての神恩報謝の生活もね、信心もできるという事になりますよね。交通安全、いわゆる無事故であるということだけに、神様がお守り下さっておるのじゃない。勿論だけれども、もう全ての点におかげをおかげと実感する。
それにはね、もう折角ここにちまきが出来上がってもくくられて、もうここを切りそろえるばっかり。そして勿論ちまきという事は、私はお徳ということ、あのちまきと云うのはね、いつまでおいても悪くならない。昔あの、戦争に行くときのあの保存食だったそうですね。ちまきというのは、だからいつまでも悪くならないもの、というのですから私はお徳という。そのまま置いときゃ、くさってしまいますよね。見かけも悪いです。切りそろえてないから、それが湯がかれて、いわゆる熱をかけて初めて、あれもおかげこれもおかげと実感できるような信心ができたときに初めて、日々が神恩報謝の生活という事になるのですね。
だからここにもう一熱、清さん信心、ここまでは分かってるんだから。もう合楽のおかげで一週間、しかも何十年と云う間、無事故でおかげを頂いておるということは、とてもただ事ではない。おかげ頂いておるとして御礼参拝がある。だからその事だけでなくて、全ての点にあれもおかげであった、これもおかげであったという実感ができるために、ここにもうひとつ信心、なら昨日の昨夜の御理解で云うならば、成り行きそのものが神様のお働きを受けておるんだと、分かるときには、もう問題はない。夫婦の間にも親子の上にも、人間関係の上にも問題がなくなってくるというところまで、行かなければまあ、いけないという。
そして私は最後に北野の方達に申しました。ね。最近口を開ければ十五年祭、口を開ければ百年祭、来年の教祖百年祭の合楽千人参り事。その千人参りの事やら、十五年祭の事をあなた方はどの程度に考えとんなさるか、思うとんなさるかというお話をしました。
これは昨日の朝、御祈念の後に久富繁雄さんがここにお届けに見えてから、昨夜は昨日は子供達が霊祭に参っておりませんでした。どうしたことちゃ濾過、思いましたら、よる御祈念に北野からも田主丸からも皆一家中でお参りして参りました。そして私は子供達に今度の百年祭の団体、合楽から千人参りといわれておるのには、まあだ申し込んでおらんごたるがどげなふうにするかちいうたら、田主丸の方も北野の方も一家中でお参りをするとそこに書き出してもらったというところであったね。
どうでしょうか、これは北野の皆さんだけじゃない。皆さんに今日は云ってるわけです。十五年祭の事がどれだけ祈られて、どれだけ実際の上に表されて行っておるだろうか。百年祭の団参、さあ早く申し込まなければ困るといわれておって、どれだけ私の方では家族親戚の方にも話しかけておる。そしてこれだけは大体お参りができると云う予想だけでもね、早よ書き出してそしてその事を祈っていくがいい。
まあだ一年半あるのだからね。そしてその事も神様に喜んで頂くこと、ですからもう成就しないことはない。自分のところは五人と思うとるとは十人おねがいしたがいいね。だから昨日繁雄さんと話した事でしたけれどもね、なら、お宅だけで十何人できることあるならば、そげな人がおるならば、もうほんなこて、合楽で千人参りはかあるく出来るのち云うて、ま云うたことでした。
皆さんどうでしょうか。もしそれがもう思うちょるばってん、実際の上に表してない、ち云うならそれは、怠慢だと私は夕べ申しました。皆に。合楽の信者、信奉者としての責任においての、ということがいつもいわれるじゃないかと。合楽の信奉者としての責任においての、云うならば、事がなされていないとするならば、それは信奉者としても怠慢だね。
だから合楽の皆さん今朝の御祈念に参っておる皆さんの場合でもです、はあほんなこつ、これが怠慢だなあ、本当に実意丁寧神信心といわれるが、本当に自分がおかげ頂かんはずだなあと云ったようなものを分かってして、そこんところにたっての云うならば成り行きをいよいよ大切にする。成り行きそのものが天地金乃神様の御働きであると云うような、本当の実感が頂けれる信心。
今日の御理解でいうとね、これから先、信心する者はどのような事が起こってきても、驚いちゃならんぞというね。驚かんですむのです。驚くな驚くなよでこれが驚かずにおらりょうかと、腹立てるな腹立てるなという手も、これが腹を立てずにおられようかという事が起こってくるのであるね。
それが日頃の信心が怠慢であると、それが受けられんのであるね。怠慢無礼である。合楽信奉者としての責任においてのというところにですね、私はなら十五年祭事が、角に願われ、実際の上に表されていっておる百年祭の事は、こう働きが起こっておるという事をです、思うただけでも自分の信心の程度を感じ分からしてもらう、なければならないね。
本当に実意を持って、これも繁雄さんの話ですけれども、あちらへ行ってお茶を頂きよる時でしたが、その百年祭の話が出ましたときに、立教百年祭の時には、久富一家一門で参られましたです。ご親戚もみんな。だから久富さん達だけで、一グループできるようでした。勿論中には、今、長男である国雄さん達が、真あだ中学くらい立ったろうと思いますが、そのいとこ達が皆お参りをしてから、いわゆる悪さ盛りですから、帰りがけにあの手洗いに、黒か碁石があるでしょうが、ご本部のあの黒い碁石をもう二人でポケットにいっぱいに持って帰って来とったげな。ほうらお前そげな事して、というてですね。 次のご本部参拝の時に全部持っていきましたという話を、それこそ何十年かぶりの話ですけれども、聞きました。
ははあ、この人がおかげ頂きなさるのは、こういうところにあるなあ、と思いました。ほうばさらかお前どんな持ってきたねち。そげな持ってくることが出来るもんかと言うながら、なら持っていくという人は少ないと思うですね。みんなあちらから、ご本部から、あの手洗いの黒い、それを次のご本部参拝の時に、あの持っていきましたと言う話を聞いてですね。
実意とはそれなんですよ。こうすることが本当だと思うたことを本当に実行の上に表さなければ、と思うとりますだけばってんではでけん。これは昨日まあ、中村さんのところでお話を致しましたことでございますが、今日の御理解はね、信心する者はこれから先、どのような事が起こってきても驚かんですむ。
じゃ、合楽でご信心のおかげを頂く者は、これから先、どのような事が起こってきても、それを修行として受けさせて頂き、成り行きとして、いや神様の働きとして、受けられる。そこには驚きもね、慌てる事もいらない、いうならばおかげが受けられる。も、確かに成り行きそのものが天地の親神様のお働きであるという確信。
合楽ではそれが信心の確信ということになる。それが確信されるときに、ならいうならば、もう問題が問題じゃなくなってくる。腹の立つだんじゃない、その事に対して御礼が云えれる。そういう信心をいよいよ身につけて頂きたいと思うですね。 どうぞ